yeye’s diary

私の芝は青い

「SUHO Japan Special Live 2022」とその光について、日記

 

10月1日、すほちゃんのライブ(お昼の部)に行くために日帰りで東京に行った。

その日記。

朝5時20分に起きて、夜のうちに選んでおいた鮮やかなオレンジのポップコーントップスとカーディガンを着た。彼と同じ空間にいるのに、色鮮やかであることが一番の敬意だと思ったから。

すほちゃんの姿を見ることになるという実感は何もなくて、ただ、生まれて初めて振ることになるであろうEXOのペンライトを布でくるんでかばんに入れたとき、はっと目が覚める責任感のようなものがあった。

 

寒いくらいの駅のホーム、きっと朝帰りの疲れ切った男の子たちを乗せた電車、朝の空港の仄暗い穏やかさと雲の上の気だるさを乗り越えて、飛行機が地上に降りると東京は拍子抜けするほど良い天気だった。

東京はいつも暑い。

朝の移動にはいつも音楽を聴くけれど、この日は聴かなかった。

乗り換えに迷って歩き回りながら、頭の中にすほちゃんの声を思い浮かべてみる。 笑っているときの顔や、身体の輪郭の細い曲線。おせふんちゃんとくっついているところ、私が大好きな、サダリですっぱいレモンジュースを飲んですっぱい顔をするすほちゃんのことを考える。

 

会場近くまで行って、あちこち歩いてみる。

込み入った路地や電車の音を聞く。

暑くて眩しくてお腹が空いて、カフェに入ってみるときっとライブに行く人たちがたくさんいて不思議な気持ちになった。

みんな、どこからきたの。

彼のどんな姿を胸のうちに描いて、どんな優しい気持ちでいるの。

 

結局、緊張と人混みを避けて開演近くなるまで新宿御苑ですっぽんが泳いでいるのを見ていた。

小さな子が走ってきて「亀!」と私の隣ではしゃいだ。

秋の気配のする日差しは強くて、芝生では人々がころころと転がり、眠り、笑っている。すほちゃんもこの平和な午後の一部分なんだと思うとふっと心が軽くなった。すほちゃんも、私が大好きな偶像を見せてくれるたくさんの人たちも、この午後、この時間の一部。

 

会場に入り、轟音が鳴る。

現れたすほちゃんは、小さく遠くに見えるすほちゃんは画面の中のすほちゃんと寸分の違いもない、あの姿と声で確かに存在していた。

大好きなGrey Suit、すほちゃんが赤いジャケットを着ていたこと。

(彼がきれいな色を着てくれることはいつも嬉しく、Grey Suitのコンセプトが大好き)

踊れる、鍛えられた身体があんなにも軽く強靭に動くことにも驚いたし、EXOメドレー、残酷な天使のテーゼ、声がいつも聴いているすほちゃんの声のままなこと、優しい陰影、韓国語の響きの深さにも改めてずっと感激していた。

でも、一番に衝撃だったのは、愛について。

 

彼は、私たちが彼を大好きなことを前提に話し、彼も私たちが大好きだと話す。

(そして、彼自身も彼を好きだということが嬉しい)

あのひどく単純なコミュニケーション。

愛を絶対的に信頼してみせる、やりとり。

この世界はすべてが疑わしいのに、愛が確かなものだという彼と私たちの約束のうえで成り立つ、祈り。

 

彼の本当の言葉、本当の苦しみ、思考なんて一生わからないし、わかるべきでもないけど、

少なくとも私たちに見せてくれる「スホ」は愛の人だった。

 

まばゆくて、慈悲深くて、

命をもらったと思った。

時間が経つにつれてその感覚はどんどん深くなる。

愛されることが生きる力ならそれは命と同じことで、彼はそれを配り歩いているんだと。

あんなにも自身の人生の多くを差し出してまで、愛されることの喜び、愛し愛されることの確かな安心感についての、この現代に起こりうる、ある一つのかたちを見せてくれているんだと。

 

「僕のことがきらいですか?」

(否定の沈黙)

「好きですか?」

(肯定の拍手)

心では叫ぶ。大好き。

私の前に現れてくれてありがとう。

私たちの前に現れるという表現を選んでくれてありがとう。

 

掲げてくれる小指。会いたかったと、メンバーも会いたがっていると何度も繰り返す声。

私たちは個の集合なのに、一つの名前を与えられて(EXO-Lという名前)、愛しいものを呼ぶようにその名前を語ってくれること。

例えそれが一種の錯覚でも、愛してもらえたという実感が自分の中にあることに人は救われるんだろう。

この奇跡が日頃から起こればいいのに。

小さな子どもが自分を守ってくれる人のことを好きで、その人もその子を心底愛しているような、この単純で幼くて確かな愛の行き交い方が私たちの愛し方の当たり前になればいいのに。

例えば春の日差しは暖かくて、花は鮮やかで、アイスクリームを食べれば甘いように、そういう優しい当たり前になればいいのに。

愛していると簡単に言えればいいのに。

彼が何度も何度も「愛そう」と言うことが、どれだけ素晴らしいことなのか、少しわかった気がする。

 

(ただ偶然EXOを好きになったというだけで、こんなに大きなものをもらっていいんだろうか。

こんなに優しくされていいのかな?

私は、コロナ禍でアパートの部屋に籠もっているときにEXOに出会った。彼らが笑っているのを見るとき、寂しくなかった。天使を見たと思った。

画面越しの彼らが私にとって彼らのすべてだったし、元々人混みや盛り上がる場所、激しいことや大きい音が苦手だからライブなんてほとんど行ったことがない。

EXOに出会うまで、行きたいとも思わなかったのに。

生まれて初めて行ったアイドルのライブ、それでこんなに愛をもらうなんて。)

 

会場を出てぼんやりしながら移動して、東京に住む大好きな友人に会った。コロナの世界になってから一度も会えていなかった友人。ずっと長いこと韓国のアイドルが好きな彼女は、遠くに見えたすほちゃんの話に「あれはバードウォッチングだよね」と言った。

バードウォッチング。

明るい気持ちになる単語。

たぶん、バードウォッチングと聞く度に私は今日を思い出す。

(でも、ライブは見ることを許されている場所だからウォッチングするけど、鳥たちは許可もなくウォッチングされてどんな気持ちなんだろう)

友人にすほちゃんのことを話せてよかった。彼女が笑って聞いてくれなかったら、私は千駄ヶ谷駅で途方に暮れて座り込んでいただろう。誰彼かわまず語りかけたいような、それよりも黙り込んで自分の内側に話し続けたいような気持ちで。

聞いて、あのね、愛を見たの。

 

食事をして、友人に見送られて空港に向かい、飛行機に乗る。

夜の飛行機の、誰もがどこか疲れている、頭の一点だけが冴え渡るような眠気がなんだか懐かしい。

一日中、ずっと眩しかった。

朝の空港の神聖な薄暗さ、新宿御苑の真昼の池を泳いでいたすっぽん、すほちゃん、銀色の星のようなペンライト、友人のいきいきした目、飛行機から見える地上の光。

(EXOのペンライトが銀の光なのは本当だった。遠い星との交信に掲げる信号、地球の言語に頼らない意思の交換のように瞬き、揺れていた。)

飛行機で隣に座っていた方がつけていたワイヤレスイヤホンが照明の落ちた機内で光っている様は、地上から光を連れてきてしまったみたいだった。蛍を手のひら包んで運ぶように。

私も光を運んでいる。かばんの中にはEXOのペンライトが入っているし、心にはすほちゃんの光が残っている。愛の実感が確かにあたたかく、絶え間なく光っている。

今、目を閉じたら光が見えるよ。

 

北海道に着いて、駅に着いて、バスはもうない時間だったけれどタクシーに乗らずに歩いて帰った。疲れていたけど、まだ歩けると思った。銀の光が私からも放たれているみたいに思えた。

 

I pray, you're light.

 

目が眩む10月の最初の日。

私が初めて「すほちゃん」と「EXOの光」を現実に見た日。

 

 

https://natalie.mu/music/news/495965