すほちゃんのMOZART!を観たメモ 忘れないために
8月5日、世宗文化会館にMOZART!を観に行った。
これまでにMOZART!を観たことはなくて、事前にYouTubeで動画を見たり曲を聴いたりすほちゃんの影を逃れてを何度も聴き、あらすじや解説のサイトをいくつか読んだ。韓国語はほんの少ししかできないから(挨拶とコーヒーください程度)、舞台の台詞はほぼ聞き取れていない。ところどころ単語と文末(文末?)でああこんなこと言ってるんだなあ、とわかるくらい。
だからヴォルフガングというキャラクターがどうにもうまく掴めなくて、すほちゃんを見たいという気持ちに気を取られるし台詞のニュアンスもわからないし他の俳優さんのヴォルフガングを見たことがないから比較ができないけど、この作品のヴォルフガングというキャラクターはこんなに優しく陽気で愛らしくていいんだろうか?これはすほちゃんが持つ上品さや柔らかさがにじみ出てしまっているんだろうか?それともこれがすほちゃんの解釈なんだろうか?
指揮を終えて陽気に手を振るヴォルフガング、踊るヴォルフガング、お酒を飲むヴォルフガング、恋のときめきに酔うヴォルフガング、めちゃくちゃなことをやっているのにどこか上品、柔らかく脆く、自惚れ屋で救いようがなく、でもずっと優しげなヴォルフガング。
やっぱり優しすぎるんじゃない?もっとエキセントリックに振る舞ったっていいのに、コンスタンツェといるヴォルフガングの危ういほどの柔らかさ。春の日差しのような笑顔。痛々しくどうしようもない弱さ。
前半は楽しく観ていたけど、クライマックスにかけて一気に苦しさも演出の劇的さも加速して、その前の記憶が吹き飛んでしまったのでクライマックスのあたりについて書いたメモや考えたことや感想を繋げて書いておく。
苦しい幼少期を過ごしたのに、自己の形成をその幼少期に依存してしまったらこういうことが起こるんだろうか。だって音楽を与えられ、名声を得たのも父親の働きかけがあったからで、彼は音楽を愛しているから音楽を離れることはできず、それは父親を離れることもできないということ。成功してみせるという意思、でもそれは父親に認められたいという、他者への依存なのでは?そしてその父親はいつまでも子どもだった頃の自分を見ているとしたら?
(これは思いついたから直接関係なくともメモとして書くけど、音楽、とくにクラシックをやっている知り合いや友人が何人かいて、幼少期からかなりきついレッスンや暴力に近い指導を受けた話も聞くけれど彼らがその記憶とどう折り合いをつけているのかはわからない。)
モーツァルトがザルツブルクを出て大司教の支配から逃れようとしたこと、新しい土地で恋をして新しい関係を得たこと。大人になった「ヴォルフガング」はこれを自分の選択で勝ち取り、果たそうとしたけれど、故郷を出ても自分自身である「アマデ」からは逃れられない。父親は「天才少年」である「アマデ」を今でも見ている。
母親を失い、父親から見放され、姉からの期待と失望、恋人という新しい「安心」の関係を作ることに失敗し、そして父親の死により自己が達成できなくなってクライマックスになだれ込むまでは、ヴォルフガングとアマデのバランスは取れているように見えた。むしろ、ヴォルフガングがアマデを利用して天才作曲家であろうとしているように見えた。
アマデはヴォルフガングのインナーチャイルドであり、才能の源泉であり、認められようというモチベーションと音楽への愛の象徴。
個人的に、大学で美術を勉強していたとき、物を作ろうとする力のほとんどを怒りに頼っていたと思う。私に箸や食器や飲み物を投げつけた父親、母親を傷付けた親戚たち、その親戚たちを作った暴力に満ちた世界。幸運にも穏やかな家庭環境で育ったほうだと思うけれど、その底に沈んでいる暴力と支配の気配が恐ろしくて、ずっと腹が立って仕方がなかった。暴力や不寛容の気配を感じるものをすべて排除したかったし、排除された世界を作って安心したくて、だから作るという行為をしていた。
過去を経なければ何も作り出せない。すべての経験や記憶や苦しみの蓄積が現在を作り、作品を作るから。でも、その記憶が自己を蝕むものだったら?神のような才能を持ちながら、その才能は過去に依存しているとしたら?
ヴォルフガングの幼少期を描く場面は長くないし、直接的な暴力や虐待の描写は少ない(倒れるヴォルフガングをあしらう父親の描写はある)。でも、父親の期待と束縛、「天才少年のままであってほしい」という望み。ヴォルフガングは現在と同時に幼少期を生きなくてはならなくなる。
当時の時代背景を考慮してみようと思ったけど、それは史実としてのモーツァルトを勉強するときに考えればよくて、今この時代に上演されている舞台を観る私から見て、子どもを支配し自由な行動と選択を阻み、期待を押し付け、親の期待を達成することによって価値が生まれると思わせること自体が暴力だ。
暴力は幼少期を凍らせると思う。大人になっても克服できない自分を精神の中に凍りつかせてしまう。(だからアマデはヴォルフガングのインナーチャイルドと言えるんじゃないか)
大人になり、才能があって、自惚れ恋をして未来を向く自分(ヴォルフガング)と、いつまでも幼少期を生き続けている自分(アマデ)。父親がいつまでもこのままであれと望んだ幼い天才。ヴォルフガングの武器である才能はこの「アマデ」に依存してしている。
この構図の残酷さに怒りが湧いた。地を這って歌うすほちゃんを見ながら腹を立てていた。
ヴォルフガングが自分ひとりでレクイエムを書こうとしては書けずにペンを取り落とす。書けない、だって彼の才能はアマデという彼自身のトラウマを介さなければならないから。
ヴォルフガングには書けなくてもアマデは書ける。ヴォルフガングがペンを持てなくなってもアマデは何度でもペンを差し出す。アマデからペンが生まれている。でもインクが切れる。ペンを動かすのはアマデでも、インクは現実のヴォルフガングによるものだから。彼の血だから。現実の肉体が精神についていけなくなる。バランスが完全に崩れている。ヴォルフガングとアマデが共にレクイエムを書くのではなくて、アマデがヴォルフガングを踏みつけている。
天から羽が降る。ペンが無限に降り注ぐ。(彼はずっと羽ペンを使っている。)
アマデが死なない限りヴォルフガングは書き続けなければならない。
アマデとヴォルフガングが並んで歩けたら天国のような音楽はきっといつまでも続いたけれど、もうそのバランスは崩れてしまった。本当は最初からずっと崩れていたのかも。
ヴォルフガングがかすれる声でアマデに「僕たちは幸せになれたんだろうか?」と歌っていた。(と、思う)
精神を殺すには肉体が死ななければならない。過去を殺すなら現在も死ぬ。どちらかのみの死はありえない。ふたりは共に死ななければならない。
だから、アマデがヴォルフガングを殺し、ヴォルフガングもまたアマデを殺す。
物語が終わる。
自分が泣いてるんだか怒っているんだがわからなくて、もうやめてほしい、もう痛めつけないでほしいと世宗文化会館で叫びたかった。
ぱっと舞台が明るくなり、俳優さんたちが華やかなあいさつをする。周囲の方が皆立ち上がったので慌てて立つ。
そしてアマデ役の子役さんの手を取って走り出てくる、軽やかな軽やかなすほちゃん。
すほちゃんが影を逃れてのクライマックスを歌い始める。この時点で私はすほちゃんの影を逃れてを一生に一度しか舞台で聴けないなんて耐えられない!という絶望モードに入っていたので、嬉しくて嬉しくて鳥肌が立つ。
歌うとき、苦しげに這い、絶望を絞り出すように歌っていてもすほちゃんの歌は楽しそうだった。すほちゃんは楽しそうに歌う人だと思う。音楽をすほちゃんが迎えに行っているような、旋律を掘り起こすような。
https://twitter.com/tenshiwomitano/status/1688138153247588352?t=LM8jkiNK6azuImccB37IUw&s=19
最後のシャウト、すほちゃんが腕を振り、暗転。真っ暗。照明が落ちた瞬間、咄嗟に目を閉じた。ここの演出は本当にかっこよくて、目を開けていることに耐えられなかった。目を開けていたらこの素晴らしい舞台が目からこぼれて落ちていってしまう気がした。
クライマックスにかけての怒涛の演出に気を取られてその他のシーンのことを書けなくなっているけど、思い出す順に書いていくと大司教が出てくるシーンはぜんぶ好きだった。ミン・ヨンギさん、伸びやかでとんでもない声量、楽しい演技、彼が歌うたび近くに座っていた方が韓国語的な「ウワァ…………」という音で感嘆の声を上げていた。大司教がめちゃくちゃかっこいい、という愉快な日本語が頭の中に生まれる。
影を逃れてを歌って前半が終わるけど、そのラストにヴォルフガングが飛び降りる演出がある。そのシルエットを照明がつくる。新しい世界や自分自身へ飛び込むという意味だと思うけど、舞台に飛び込んでいく、落下していくという演出がなんだかスウィングキッズのロギスやカイくんのRoverのMVを思い出させて背筋が凍った。そういう意図の演出ではないはずなんだけど、すほちゃんも舞台に落下していく選択をしているんじゃないかとふと怖くなった。人生をかけている、と言えてしまうすほちゃんは、もしかしたらそのつもりかもしれないとも思う。
シカネーダーとのシーンの楽しさと高揚、すほちゃんのかわいいダンス。すほちゃんの動きは常に軽やかで、どこか前のめりで、ばねがきいていてとても鮮やか。
開演前にすほちゃんの声でアナウンスが入る。緊張していたので心臓が掴まれたようになったのと同時に、芸能人のナレーション付きのプラネタリウムに来たような気持ちになった。
照明がとてもよかった。照明も踊っているみたいだった。わかりやすく劇的。喉を反らせるすほちゃんのシルエットが暗闇の中に浮かび上がる美しさと光の激しさ(照明さんを心底すごいと思った)。普段、小劇場の演劇やアングラばかり観ているので大きな舞台のミュージカルをちゃんと見たのは数年ぶりだと思う。大掛かりな舞台装置、衣装、音響。遊園地みたいに楽しかった。大司教が乗っていた馬車が大好き。
コンスタンツェのダンスはやめられないを聴くのをとても楽しみにしていたけど、この渡韓の直前に恋人と別れようと決心するというかなり参っている状態だったので(これを書いてる今はちょっと落ち着きを取り戻した)恋のシーンやコンスタンツェにはかなり感情移入してしまった。破滅するんだよなあ……すべて……という気持ちでいて、ダンスはやめられないを聴くにはある意味良い精神状態だったかもしれない…。
ヴォルフガング。自惚れ屋で正直者で愛らしくてどうしようもない優男。救いようのない芸術家。
ヴォルフガングを見ていて、なんだか人間失格の葉ちゃんを思い出したりもした。
https://twitter.com/tenshiwomitano/status/1688319303056257024?t=GQBsuzNcsiVW0cGJ1pzhVg&s=19
家族との確執やアマデとヴォルフガングについてばかり考えていたので、男爵夫人の言う「金の星」の部分をきちんと考えられなかったのが悔しい。重要な要素だったのに。ただ、金の星のシーンは星が劇場いっぱいに広がって宇宙のようにきれいだった。キミは Romantic Universeだし、私が大好きなお星さま柄のシャツを着ていた日のすほちゃんを思い出してしまった。気が散ってる。
ナンネールの苦しみについてもっと注意して観たかった、きっとナンネールの側からこの物語を見ることができる。父親、弟という男性たちと家族というシステムの中で人生を失った苦しみについて考えることができるかもしれない。
貴族たちは彼を「モーツァルト」と呼んで称えていたけれど、そのモーツァルトはどちらのモーツァルトなんだろう。ヴォルフガングなんだろうか。アマデなんだろうか。優しく奔放で過激で愛らしい天才作曲家の、天国のような作品のみを指しているんだろうか。
僕こそ音楽なのは誰なんだろう。
そう考えるとこの作品のタイトルとしてのMOZARTについている「!」が苦しい。
考え続けながら歩いてホテルに帰り(文化会館まで徒歩で行ける場所にホテルを取ったのは大正解)、荷物を整理し、YouTubeですほちゃんの影を逃れてを繰り返し聴きながら眠り、翌日朝のうちにホテルを出て飛行機に乗って帰った。
モーツァルトに関して、アマデウスはずっと好きな映画で(私がアマデウスで一番好きなシーンはモーツァルトがかつらのお店に入ってどれも素敵だ!選べない!みたいなことを言うシーンと、サリエリの父親があっさり喉に食べ物をつまらせて死ぬシーン)、大学でオペラ史の授業を取ったとき、色んなお話を勉強できるのかなあとワクワク授業に行ったらモーツァルトオタクの教授がモーツァルトの史跡を巡った話を延々と聞かされ続け、試験のため必死にモーツァルトの作品と関連人物を暗記したこと(そしてその多くを既に忘れてしまった)。ピアノを習っていたときにはみんなそうするようにモーツァルトを弾いたし、永井陽子さんの「モーツァルトの電話帳」という歌集が好きだったこと。小学生の頃モーツァルトの伝記漫画を読んで感激したこと。普段は泣かない友達が、ショパンの伝記漫画を読んで「はじめて漫画を読んで泣いた」と言ったことまで、あれこれ思い出した。
日本に帰って毎日ヴォルフガングのことを考え、影を逃れてを聴き、買ってきたパンフレットを眺め、ポストカードを飾って生活している。ふんだんな給料と有給がある職場ではないために、すほちゃんのヴォルフガングをこの人生で一度しか見られないであろうことが心底悔しく、でも一度でも見られたことは人生の幸福だよね。観に行ってよかった、すほちゃんを好きでいられてよかった。チケットが取れてよかった、航空券を買うお金があってよかった、暑い暑いソウルを一人で歩き回って幸せな自分でよかった。こうやって幸福を積み上げてなんとか生き延びていく。自分を引きずりながらどうにかやっていく。
あとは、この舞台は人によってはショックを受けたり過去を掘り起こされたりすると思うし、物語も演出も激しいので観に行ったすべての人が安心する場所でよく眠れますように。
すほちゃんが怪我なく全公演を終えられますように。私が大ダメージを受けているこの舞台がすほちゃんの中で素晴らしい仕事の記憶として残りますように。
すべてがうまくいきますように。
きっとこれからも何度も舞台で生き、死ぬヴォルフガング。あなたのことを考えてるよ。
「ベッキョン」という人の声についての想像
ベッキョンという人の歌声について、ベッキョンの声と私の個人的な人生の関わりについて書きたかった。
1.日記から、ベッキョンについて、ベッキョンの声について書いている部分。
(ただ考えや、ものごとから受けた印象を書き殴っているから文章は支離滅裂、あとから読むと何の話かよくわからないということも多発する日記)
ベッキョンの声は楽器……ベッキョンの声を聴くたびに、世の中にはこんな音があったのかと驚かされる。聴いたことのなかった楽器の音みたいに、空から降ってきたみたいに心を震わせる。(2021/9/21)
ベッキョンという美しい楽器が、より音を出そうと、ベッキョンの身体を酷使しているような……白く笑う人だし(※)、Lifesavior、救世主、音を奏でる忠実な「楽器」でもある。
天上の楽器。天が裂けるときの音。(2021/10/2)
神さま、私の救世主を守ってよ。彼の背負うものは一人の人間が背負えるものなのかな。ベッキョン先生自身ですら今まで言葉にせずにきたような思考の小さなくせや、考えの流れや、感情の動きのすべてが守られ、彼の味方になって彼を守りますように。(2021/10/12)
(150531のEL DORADO (https://youtu.be/kNcMAQ7K6CE)を見た日)
天使の姿を見てしまった。天の装置としての天使。壊れることを恐れない、光を恐れない、崩壊の日にきっと聞こえる歌声。(2021/11/6)
その喉がこの世に、この地上にあることが嬉しい。私ははやくベッキョン先生という存在を乗り越えたい。その存在に絶え間なくダメージを受けている。絶え間なく降り注ぐ慈悲に、心臓が痛んで仕方がない。
天才であり続けようとしてくれること。はやく乗り越えてしまいたいと思ってしまうほどの重み。(2021/11/11)
彼が人間でいてくれてよかった。概念や観念や理想や祈祷の中に生きる存在じゃなくてよかった。(2021/11/14)
ベッキョン先生の声、泣いているみたいって思ったけど、少し違って、泣いて泣いてあんまりに泣いて、喉が開いて息が深くなり、自己憐憫の心地良い痛みのあるときのあの感覚、あれを呼び起こす声。(2021/12/7)
ベッキョンのそばでベッキョンを愛する人たちが、より深く彼を愛し、守り、深く寄り添えるように祈ります。その人たちのことを祈ります。(2021/12/12)
光の人なのに、夜を歌う人。(2022/1/16)
どうしてそんなに優しい声で歌うの。甘やかす。心を麻痺させる。
歯をくいしばってベッキョンの声に耐えている。Sing for youを聴きながら歯をくいしばっている。(2022/3/10)
天使が声を奪われる直前の、最後に絞り出す声のように歌う。私は奥歯を噛み締めて、血の味を感じるみたいに聴いている。(2022/3/20)
私の心の支え、強固な砦、煉瓦、私のマイセン焼の壁。天の火にも焼け落ちない砦。(2022/3/21)
欲望の対象、天使、天才、偶像、キャンディみたいに甘い夢、泣いているみたいな震え。私たちと彼が作り上げた幻想。秘密、合言葉、呪文。救いを求めるときに口にする音、ベッキョン。(2022/4/24)
2.連想するもの、連想させるもの。
・ギュスターヴ・ドレの「神曲」天国篇のこの絵
・ディキンソンの詩、「I felt a Funerral, in my Brain,(私は葬式を感じた、頭の中に)」の一節
As all the Heavens were a Bell,
And Being, but an Ear,
まるで空全体が一つの鐘になり、
この世の存在が、一つの耳になったように、
(対訳ディキンソン詩集 亀井俊介編)
・映画、オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴの台詞
「空には惑星と同じサイズのダイヤがある 圧縮された星の中心核 白色矮星よ まばゆい光を放ち──巨大な銅鑼のように音楽を奏でてる」
「ほんの50光年先よ ケンタウルス座の方向に」
「空で音楽を奏でてるダイヤのことだけ考えて」
・ロックバンド、Holeの「Awful」の歌詞
Swing low, cherry, cherry
Yeah, it's awful
He's drunk, he tastes
Like candy, he's so beautiful
Candyという単語が入っているせいかもしれないけど、この歌詞を聴くといつも彼のことを思う。
ライブ映像でコートニーがこの部分を歌うとき、驚くほど優しい顔をして天を仰ぐのが大好きで、それが彼を思うときの気持ちに似ている気がする。
・マイセン焼の壁
ドイツのドレスデン、ドレスデン城にあるマイセン磁器のタイルの壁。
高温で焼かれたタイルは空爆でも焼けなかったそうで、その話を読んでから私の中の屈強さの象徴。
・朝
それも、まだ薄暗い早朝。
毎朝、「U」をアラームにして起きている。それ以外のどんな曲も朝には苦しく思えてしまうのに、どんなに重くのしかかる朝でも、Uだけが眠りをすくい上げて、そっと肩を揺さぶってくれる。
3.個人的な決心について
一昨年のある通夜。畳に並べて敷かれた布団の中にいた。すぐ傍に母や妹、叔母が眠っていた。隣の部屋ではまだ酒を飲むグラスの音、喋り声が響いていて、それを遠くに押しやりたくて、彼の歌を聴いていた。
隣の部屋の彼らは、所謂年配の男性たちは、かつて暴力で家庭内の女性の言葉を押しつぶした男性について「でも、いい人だった」と言った。暴力を家庭で耐え忍んだ女性を褒めた。それこそが取るべき態度だったと言うように。
婚姻の強要、学びたいという意思の否定。大学に行くことを許されなかった女性の話。(聞く度に胸が詰まる話)
また、彼らの抱く母親への幻想。彼女たちが家庭に費やさざるを得なかったそのすべての労力に対する、無関心さ。
古い田舎町で生きた人たちの喋り声は、暴力、怒声、婚姻、酒、暴力、暴力。それらの記憶に満ちている。
私はここを離れて、戻らないと決めるべきだ。死なないために。
勉強しよう。行きたいところに行こう。働こう。もしそのために一人ぼっちで死ぬことになっても。
そう自覚したとき、初めて決意という形でこの意思を認識したとき、Every secondの優しい声が波のように打ち寄せていた。
これはベッキョンという歌手、一人のアイドル、そして彼自身には何も関係のない私個人に起こったことだけど、そこに彼の歌があったことは私の人生にとって大きな事実だ。
彼の声は勇気の象徴。こうやって彼は彼の歌を聞く人間一人一人の中で偶像になっていく。
변백현という人の喉が持つ声。
震える心をなだめて、感情を砂糖漬けにして麻痺させるような、でもそのくせ人生への切実さに満ちた声。
彼があの明るい笑顔で笑い飛ばしてくれたらなんだってどうでも良くなるような気がするのに、決して笑い飛ばしてはくれない人。笑い飛ばすことを許さない人。ぞっとするほど容赦のない現実を生きている人。自分の人生が喜劇だったらいいと言った人。それは、人生に対して一瞬の隙もなく張り詰めた真剣さなんだろう。という幻想。
彼の声に甘やかされて、でも優しく突き放されながら生きている。あたたかく包み込まれながら冷たい雨の夜に放り出されている。
これはおまえの人生だって突きつけられている。
私は彼の声の切実さが好きなんだと思う。
そして、そう感じさせる、彼という偶像が好きなんだろう。
ベッキョンという一つの偶像を愛している。彼が作り上げたものを愛している。そして同時に彼の声が突きつけてくる、私、自分自身の人生も愛している。
※ハン・ガンの「すべての、白いものたちの」で韓国語の白く笑う、という表現について言及されていて(これを読んで日記に書いたんだと思う)、寂しげに、堪えるように笑う、というような意味だったような気がするけど、今手元に本がないのでわからない。わかり次第ちゃんと追記します…すみません…
「SUHO Japan Special Live 2022」とその光について、日記
10月1日、すほちゃんのライブ(お昼の部)に行くために日帰りで東京に行った。
その日記。
朝5時20分に起きて、夜のうちに選んでおいた鮮やかなオレンジのポップコーントップスとカーディガンを着た。彼と同じ空間にいるのに、色鮮やかであることが一番の敬意だと思ったから。
すほちゃんの姿を見ることになるという実感は何もなくて、ただ、生まれて初めて振ることになるであろうEXOのペンライトを布でくるんでかばんに入れたとき、はっと目が覚める責任感のようなものがあった。
寒いくらいの駅のホーム、きっと朝帰りの疲れ切った男の子たちを乗せた電車、朝の空港の仄暗い穏やかさと雲の上の気だるさを乗り越えて、飛行機が地上に降りると東京は拍子抜けするほど良い天気だった。
東京はいつも暑い。
朝の移動にはいつも音楽を聴くけれど、この日は聴かなかった。
乗り換えに迷って歩き回りながら、頭の中にすほちゃんの声を思い浮かべてみる。 笑っているときの顔や、身体の輪郭の細い曲線。おせふんちゃんとくっついているところ、私が大好きな、サダリですっぱいレモンジュースを飲んですっぱい顔をするすほちゃんのことを考える。
会場近くまで行って、あちこち歩いてみる。
込み入った路地や電車の音を聞く。
暑くて眩しくてお腹が空いて、カフェに入ってみるときっとライブに行く人たちがたくさんいて不思議な気持ちになった。
みんな、どこからきたの。
彼のどんな姿を胸のうちに描いて、どんな優しい気持ちでいるの。
結局、緊張と人混みを避けて開演近くなるまで新宿御苑ですっぽんが泳いでいるのを見ていた。
小さな子が走ってきて「亀!」と私の隣ではしゃいだ。
秋の気配のする日差しは強くて、芝生では人々がころころと転がり、眠り、笑っている。すほちゃんもこの平和な午後の一部分なんだと思うとふっと心が軽くなった。すほちゃんも、私が大好きな偶像を見せてくれるたくさんの人たちも、この午後、この時間の一部。
会場に入り、轟音が鳴る。
現れたすほちゃんは、小さく遠くに見えるすほちゃんは画面の中のすほちゃんと寸分の違いもない、あの姿と声で確かに存在していた。
大好きなGrey Suit、すほちゃんが赤いジャケットを着ていたこと。
(彼がきれいな色を着てくれることはいつも嬉しく、Grey Suitのコンセプトが大好き)
踊れる、鍛えられた身体があんなにも軽く強靭に動くことにも驚いたし、EXOメドレー、残酷な天使のテーゼ、声がいつも聴いているすほちゃんの声のままなこと、優しい陰影、韓国語の響きの深さにも改めてずっと感激していた。
でも、一番に衝撃だったのは、愛について。
彼は、私たちが彼を大好きなことを前提に話し、彼も私たちが大好きだと話す。
(そして、彼自身も彼を好きだということが嬉しい)
あのひどく単純なコミュニケーション。
愛を絶対的に信頼してみせる、やりとり。
この世界はすべてが疑わしいのに、愛が確かなものだという彼と私たちの約束のうえで成り立つ、祈り。
彼の本当の言葉、本当の苦しみ、思考なんて一生わからないし、わかるべきでもないけど、
少なくとも私たちに見せてくれる「スホ」は愛の人だった。
まばゆくて、慈悲深くて、
命をもらったと思った。
時間が経つにつれてその感覚はどんどん深くなる。
愛されることが生きる力ならそれは命と同じことで、彼はそれを配り歩いているんだと。
あんなにも自身の人生の多くを差し出してまで、愛されることの喜び、愛し愛されることの確かな安心感についての、この現代に起こりうる、ある一つのかたちを見せてくれているんだと。
「僕のことがきらいですか?」
(否定の沈黙)
「好きですか?」
(肯定の拍手)
心では叫ぶ。大好き。
私の前に現れてくれてありがとう。
私たちの前に現れるという表現を選んでくれてありがとう。
掲げてくれる小指。会いたかったと、メンバーも会いたがっていると何度も繰り返す声。
私たちは個の集合なのに、一つの名前を与えられて(EXO-Lという名前)、愛しいものを呼ぶようにその名前を語ってくれること。
例えそれが一種の錯覚でも、愛してもらえたという実感が自分の中にあることに人は救われるんだろう。
この奇跡が日頃から起こればいいのに。
小さな子どもが自分を守ってくれる人のことを好きで、その人もその子を心底愛しているような、この単純で幼くて確かな愛の行き交い方が私たちの愛し方の当たり前になればいいのに。
例えば春の日差しは暖かくて、花は鮮やかで、アイスクリームを食べれば甘いように、そういう優しい当たり前になればいいのに。
愛していると簡単に言えればいいのに。
彼が何度も何度も「愛そう」と言うことが、どれだけ素晴らしいことなのか、少しわかった気がする。
(ただ偶然EXOを好きになったというだけで、こんなに大きなものをもらっていいんだろうか。
こんなに優しくされていいのかな?
私は、コロナ禍でアパートの部屋に籠もっているときにEXOに出会った。彼らが笑っているのを見るとき、寂しくなかった。天使を見たと思った。
画面越しの彼らが私にとって彼らのすべてだったし、元々人混みや盛り上がる場所、激しいことや大きい音が苦手だからライブなんてほとんど行ったことがない。
EXOに出会うまで、行きたいとも思わなかったのに。
生まれて初めて行ったアイドルのライブ、それでこんなに愛をもらうなんて。)
会場を出てぼんやりしながら移動して、東京に住む大好きな友人に会った。コロナの世界になってから一度も会えていなかった友人。ずっと長いこと韓国のアイドルが好きな彼女は、遠くに見えたすほちゃんの話に「あれはバードウォッチングだよね」と言った。
バードウォッチング。
明るい気持ちになる単語。
たぶん、バードウォッチングと聞く度に私は今日を思い出す。
(でも、ライブは見ることを許されている場所だからウォッチングするけど、鳥たちは許可もなくウォッチングされてどんな気持ちなんだろう)
友人にすほちゃんのことを話せてよかった。彼女が笑って聞いてくれなかったら、私は千駄ヶ谷駅で途方に暮れて座り込んでいただろう。誰彼かわまず語りかけたいような、それよりも黙り込んで自分の内側に話し続けたいような気持ちで。
聞いて、あのね、愛を見たの。
食事をして、友人に見送られて空港に向かい、飛行機に乗る。
夜の飛行機の、誰もがどこか疲れている、頭の一点だけが冴え渡るような眠気がなんだか懐かしい。
一日中、ずっと眩しかった。
朝の空港の神聖な薄暗さ、新宿御苑の真昼の池を泳いでいたすっぽん、すほちゃん、銀色の星のようなペンライト、友人のいきいきした目、飛行機から見える地上の光。
(EXOのペンライトが銀の光なのは本当だった。遠い星との交信に掲げる信号、地球の言語に頼らない意思の交換のように瞬き、揺れていた。)
飛行機で隣に座っていた方がつけていたワイヤレスイヤホンが照明の落ちた機内で光っている様は、地上から光を連れてきてしまったみたいだった。蛍を手のひら包んで運ぶように。
私も光を運んでいる。かばんの中にはEXOのペンライトが入っているし、心にはすほちゃんの光が残っている。愛の実感が確かにあたたかく、絶え間なく光っている。
今、目を閉じたら光が見えるよ。
北海道に着いて、駅に着いて、バスはもうない時間だったけれどタクシーに乗らずに歩いて帰った。疲れていたけど、まだ歩けると思った。銀の光が私からも放たれているみたいに思えた。
I pray, you're light.
目が眩む10月の最初の日。
私が初めて「すほちゃん」と「EXOの光」を現実に見た日。
https://natalie.mu/music/news/495965