yeye’s diary

私の芝は青い

すほちゃんのMOZART!を観たメモ 忘れないために

 

 8月5日、世宗文化会館にMOZART!を観に行った。 

 これまでにMOZART!を観たことはなくて、事前にYouTubeで動画を見たり曲を聴いたりすほちゃんの影を逃れてを何度も聴き、あらすじや解説のサイトをいくつか読んだ。韓国語はほんの少ししかできないから(挨拶とコーヒーください程度)、舞台の台詞はほぼ聞き取れていない。ところどころ単語と文末(文末?)でああこんなこと言ってるんだなあ、とわかるくらい。

 だからヴォルフガングというキャラクターがどうにもうまく掴めなくて、すほちゃんを見たいという気持ちに気を取られるし台詞のニュアンスもわからないし他の俳優さんのヴォルフガングを見たことがないから比較ができないけど、この作品のヴォルフガングというキャラクターはこんなに優しく陽気で愛らしくていいんだろうか?これはすほちゃんが持つ上品さや柔らかさがにじみ出てしまっているんだろうか?それともこれがすほちゃんの解釈なんだろうか?

 指揮を終えて陽気に手を振るヴォルフガング、踊るヴォルフガング、お酒を飲むヴォルフガング、恋のときめきに酔うヴォルフガング、めちゃくちゃなことをやっているのにどこか上品、柔らかく脆く、自惚れ屋で救いようがなく、でもずっと優しげなヴォルフガング。

 やっぱり優しすぎるんじゃない?もっとエキセントリックに振る舞ったっていいのに、コンスタンツェといるヴォルフガングの危ういほどの柔らかさ。春の日差しのような笑顔。痛々しくどうしようもない弱さ。

 

 前半は楽しく観ていたけど、クライマックスにかけて一気に苦しさも演出の劇的さも加速して、その前の記憶が吹き飛んでしまったのでクライマックスのあたりについて書いたメモや考えたことや感想を繋げて書いておく。

 

 苦しい幼少期を過ごしたのに、自己の形成をその幼少期に依存してしまったらこういうことが起こるんだろうか。だって音楽を与えられ、名声を得たのも父親の働きかけがあったからで、彼は音楽を愛しているから音楽を離れることはできず、それは父親を離れることもできないということ。成功してみせるという意思、でもそれは父親に認められたいという、他者への依存なのでは?そしてその父親はいつまでも子どもだった頃の自分を見ているとしたら?

 

(これは思いついたから直接関係なくともメモとして書くけど、音楽、とくにクラシックをやっている知り合いや友人が何人かいて、幼少期からかなりきついレッスンや暴力に近い指導を受けた話も聞くけれど彼らがその記憶とどう折り合いをつけているのかはわからない。)

 

 モーツァルトザルツブルクを出て大司教の支配から逃れようとしたこと、新しい土地で恋をして新しい関係を得たこと。大人になった「ヴォルフガング」はこれを自分の選択で勝ち取り、果たそうとしたけれど、故郷を出ても自分自身である「アマデ」からは逃れられない。父親は「天才少年」である「アマデ」を今でも見ている。

 

 母親を失い、父親から見放され、姉からの期待と失望、恋人という新しい「安心」の関係を作ることに失敗し、そして父親の死により自己が達成できなくなってクライマックスになだれ込むまでは、ヴォルフガングとアマデのバランスは取れているように見えた。むしろ、ヴォルフガングがアマデを利用して天才作曲家であろうとしているように見えた。

 アマデはヴォルフガングのインナーチャイルドであり、才能の源泉であり、認められようというモチベーションと音楽への愛の象徴。

 

 個人的に、大学で美術を勉強していたとき、物を作ろうとする力のほとんどを怒りに頼っていたと思う。私に箸や食器や飲み物を投げつけた父親、母親を傷付けた親戚たち、その親戚たちを作った暴力に満ちた世界。幸運にも穏やかな家庭環境で育ったほうだと思うけれど、その底に沈んでいる暴力と支配の気配が恐ろしくて、ずっと腹が立って仕方がなかった。暴力や不寛容の気配を感じるものをすべて排除したかったし、排除された世界を作って安心したくて、だから作るという行為をしていた。

 

 過去を経なければ何も作り出せない。すべての経験や記憶や苦しみの蓄積が現在を作り、作品を作るから。でも、その記憶が自己を蝕むものだったら?神のような才能を持ちながら、その才能は過去に依存しているとしたら?

 

 ヴォルフガングの幼少期を描く場面は長くないし、直接的な暴力や虐待の描写は少ない(倒れるヴォルフガングをあしらう父親の描写はある)。でも、父親の期待と束縛、「天才少年のままであってほしい」という望み。ヴォルフガングは現在と同時に幼少期を生きなくてはならなくなる。

 当時の時代背景を考慮してみようと思ったけど、それは史実としてのモーツァルトを勉強するときに考えればよくて、今この時代に上演されている舞台を観る私から見て、子どもを支配し自由な行動と選択を阻み、期待を押し付け、親の期待を達成することによって価値が生まれると思わせること自体が暴力だ。

 暴力は幼少期を凍らせると思う。大人になっても克服できない自分を精神の中に凍りつかせてしまう。(だからアマデはヴォルフガングのインナーチャイルドと言えるんじゃないか)

 

 大人になり、才能があって、自惚れ恋をして未来を向く自分(ヴォルフガング)と、いつまでも幼少期を生き続けている自分(アマデ)。父親がいつまでもこのままであれと望んだ幼い天才。ヴォルフガングの武器である才能はこの「アマデ」に依存してしている。

 この構図の残酷さに怒りが湧いた。地を這って歌うすほちゃんを見ながら腹を立てていた。

 

 ヴォルフガングが自分ひとりでレクイエムを書こうとしては書けずにペンを取り落とす。書けない、だって彼の才能はアマデという彼自身のトラウマを介さなければならないから。

 ヴォルフガングには書けなくてもアマデは書ける。ヴォルフガングがペンを持てなくなってもアマデは何度でもペンを差し出す。アマデからペンが生まれている。でもインクが切れる。ペンを動かすのはアマデでも、インクは現実のヴォルフガングによるものだから。彼の血だから。現実の肉体が精神についていけなくなる。バランスが完全に崩れている。ヴォルフガングとアマデが共にレクイエムを書くのではなくて、アマデがヴォルフガングを踏みつけている。

 

 天から羽が降る。ペンが無限に降り注ぐ。(彼はずっと羽ペンを使っている。)

 アマデが死なない限りヴォルフガングは書き続けなければならない。

 アマデとヴォルフガングが並んで歩けたら天国のような音楽はきっといつまでも続いたけれど、もうそのバランスは崩れてしまった。本当は最初からずっと崩れていたのかも。

 

 ヴォルフガングがかすれる声でアマデに「僕たちは幸せになれたんだろうか?」と歌っていた。(と、思う)

 

 精神を殺すには肉体が死ななければならない。過去を殺すなら現在も死ぬ。どちらかのみの死はありえない。ふたりは共に死ななければならない。

 

 だから、アマデがヴォルフガングを殺し、ヴォルフガングもまたアマデを殺す。

 物語が終わる。

 

 自分が泣いてるんだか怒っているんだがわからなくて、もうやめてほしい、もう痛めつけないでほしいと世宗文化会館で叫びたかった。

 

 ぱっと舞台が明るくなり、俳優さんたちが華やかなあいさつをする。周囲の方が皆立ち上がったので慌てて立つ。

 そしてアマデ役の子役さんの手を取って走り出てくる、軽やかな軽やかなすほちゃん。

 すほちゃんが影を逃れてのクライマックスを歌い始める。この時点で私はすほちゃんの影を逃れてを一生に一度しか舞台で聴けないなんて耐えられない!という絶望モードに入っていたので、嬉しくて嬉しくて鳥肌が立つ。

 歌うとき、苦しげに這い、絶望を絞り出すように歌っていてもすほちゃんの歌は楽しそうだった。すほちゃんは楽しそうに歌う人だと思う。音楽をすほちゃんが迎えに行っているような、旋律を掘り起こすような。

https://twitter.com/tenshiwomitano/status/1688138153247588352?t=LM8jkiNK6azuImccB37IUw&s=19

 

 最後のシャウト、すほちゃんが腕を振り、暗転。真っ暗。照明が落ちた瞬間、咄嗟に目を閉じた。ここの演出は本当にかっこよくて、目を開けていることに耐えられなかった。目を開けていたらこの素晴らしい舞台が目からこぼれて落ちていってしまう気がした。

 

 クライマックスにかけての怒涛の演出に気を取られてその他のシーンのことを書けなくなっているけど、思い出す順に書いていくと大司教が出てくるシーンはぜんぶ好きだった。ミン・ヨンギさん、伸びやかでとんでもない声量、楽しい演技、彼が歌うたび近くに座っていた方が韓国語的な「ウワァ…………」という音で感嘆の声を上げていた。大司教がめちゃくちゃかっこいい、という愉快な日本語が頭の中に生まれる。

 影を逃れてを歌って前半が終わるけど、そのラストにヴォルフガングが飛び降りる演出がある。そのシルエットを照明がつくる。新しい世界や自分自身へ飛び込むという意味だと思うけど、舞台に飛び込んでいく、落下していくという演出がなんだかスウィングキッズのロギスやカイくんのRoverのMVを思い出させて背筋が凍った。そういう意図の演出ではないはずなんだけど、すほちゃんも舞台に落下していく選択をしているんじゃないかとふと怖くなった。人生をかけている、と言えてしまうすほちゃんは、もしかしたらそのつもりかもしれないとも思う。

 シカネーダーとのシーンの楽しさと高揚、すほちゃんのかわいいダンス。すほちゃんの動きは常に軽やかで、どこか前のめりで、ばねがきいていてとても鮮やか。

 開演前にすほちゃんの声でアナウンスが入る。緊張していたので心臓が掴まれたようになったのと同時に、芸能人のナレーション付きのプラネタリウムに来たような気持ちになった。

 照明がとてもよかった。照明も踊っているみたいだった。わかりやすく劇的。喉を反らせるすほちゃんのシルエットが暗闇の中に浮かび上がる美しさと光の激しさ(照明さんを心底すごいと思った)。普段、小劇場の演劇やアングラばかり観ているので大きな舞台のミュージカルをちゃんと見たのは数年ぶりだと思う。大掛かりな舞台装置、衣装、音響。遊園地みたいに楽しかった。大司教が乗っていた馬車が大好き。

 コンスタンツェのダンスはやめられないを聴くのをとても楽しみにしていたけど、この渡韓の直前に恋人と別れようと決心するというかなり参っている状態だったので(これを書いてる今はちょっと落ち着きを取り戻した)恋のシーンやコンスタンツェにはかなり感情移入してしまった。破滅するんだよなあ……すべて……という気持ちでいて、ダンスはやめられないを聴くにはある意味良い精神状態だったかもしれない…。

 ヴォルフガング。自惚れ屋で正直者で愛らしくてどうしようもない優男。救いようのない芸術家。

 ヴォルフガングを見ていて、なんだか人間失格の葉ちゃんを思い出したりもした。

 https://twitter.com/tenshiwomitano/status/1688319303056257024?t=GQBsuzNcsiVW0cGJ1pzhVg&s=19

 

 家族との確執やアマデとヴォルフガングについてばかり考えていたので、男爵夫人の言う「金の星」の部分をきちんと考えられなかったのが悔しい。重要な要素だったのに。ただ、金の星のシーンは星が劇場いっぱいに広がって宇宙のようにきれいだった。キミは Romantic Universeだし、私が大好きなお星さま柄のシャツを着ていた日のすほちゃんを思い出してしまった。気が散ってる。

 ナンネールの苦しみについてもっと注意して観たかった、きっとナンネールの側からこの物語を見ることができる。父親、弟という男性たちと家族というシステムの中で人生を失った苦しみについて考えることができるかもしれない。

 貴族たちは彼を「モーツァルト」と呼んで称えていたけれど、そのモーツァルトはどちらのモーツァルトなんだろう。ヴォルフガングなんだろうか。アマデなんだろうか。優しく奔放で過激で愛らしい天才作曲家の、天国のような作品のみを指しているんだろうか。

 僕こそ音楽なのは誰なんだろう。

 そう考えるとこの作品のタイトルとしてのMOZARTについている「!」が苦しい。

 

 考え続けながら歩いてホテルに帰り(文化会館まで徒歩で行ける場所にホテルを取ったのは大正解)、荷物を整理し、YouTubeですほちゃんの影を逃れてを繰り返し聴きながら眠り、翌日朝のうちにホテルを出て飛行機に乗って帰った。

 

 

 モーツァルトに関して、アマデウスはずっと好きな映画で(私がアマデウスで一番好きなシーンはモーツァルトがかつらのお店に入ってどれも素敵だ!選べない!みたいなことを言うシーンと、サリエリの父親があっさり喉に食べ物をつまらせて死ぬシーン)、大学でオペラ史の授業を取ったとき、色んなお話を勉強できるのかなあとワクワク授業に行ったらモーツァルトオタクの教授がモーツァルトの史跡を巡った話を延々と聞かされ続け、試験のため必死にモーツァルトの作品と関連人物を暗記したこと(そしてその多くを既に忘れてしまった)。ピアノを習っていたときにはみんなそうするようにモーツァルトを弾いたし、永井陽子さんの「モーツァルトの電話帳」という歌集が好きだったこと。小学生の頃モーツァルトの伝記漫画を読んで感激したこと。普段は泣かない友達が、ショパンの伝記漫画を読んで「はじめて漫画を読んで泣いた」と言ったことまで、あれこれ思い出した。

 日本に帰って毎日ヴォルフガングのことを考え、影を逃れてを聴き、買ってきたパンフレットを眺め、ポストカードを飾って生活している。ふんだんな給料と有給がある職場ではないために、すほちゃんのヴォルフガングをこの人生で一度しか見られないであろうことが心底悔しく、でも一度でも見られたことは人生の幸福だよね。観に行ってよかった、すほちゃんを好きでいられてよかった。チケットが取れてよかった、航空券を買うお金があってよかった、暑い暑いソウルを一人で歩き回って幸せな自分でよかった。こうやって幸福を積み上げてなんとか生き延びていく。自分を引きずりながらどうにかやっていく。

 

 あとは、この舞台は人によってはショックを受けたり過去を掘り起こされたりすると思うし、物語も演出も激しいので観に行ったすべての人が安心する場所でよく眠れますように。

 すほちゃんが怪我なく全公演を終えられますように。私が大ダメージを受けているこの舞台がすほちゃんの中で素晴らしい仕事の記憶として残りますように。

 すべてがうまくいきますように。

 きっとこれからも何度も舞台で生き、死ぬヴォルフガング。あなたのことを考えてるよ。